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英霊たちに捧ぐ

初めての体当たり攻撃を命ぜられて散華した特攻隊員たちと ご家族の苦悩

敷島隊

  • 一番機 関 行男 愛媛県西条市出身   23才 海軍中佐
  • 二番機 中野 磐雄 福島県原町出身    19才 海軍少尉
  • 三番機 谷 暢夫 京都府舞鶴市出身    20才 海軍少尉
  • 四番機 永峰 肇 宮崎県宮崎市出身   19才 海軍飛行兵曹長
  • 五番機 大黒 繁男 愛媛県新居浜市出身  20才 海軍飛行兵曹長

散華なさったときの満年齢と、二階級特進しての最終階級を記す。

楢本神社

敷島隊 隊長

関行男中佐は、敷島隊員とともに西条市 楢本神社にて奉られています。

楢本神社2

五軍神 慰霊碑

毎年10月25日には、まことに厳かな慰霊式典が執り行われております。

 

 

 

 

菅靖匡 談話より抜粋
「出版社の方々から、《菅さん独自の史観と筆力なら、どの時代でも活写できるんだから、昭和の戦史を書きませんか》というオファーをいただくたびに、《ぼくには、およそ明治以降の戦史を、ましてや小説仕立てで書くなんて資格はないんです》とお断りしてるんや。その資格は、実体験なさった人々にしか無い、と思う。悲惨きわまりない戦争体験をなさった方々はじめ、いまだ生々しい記憶に胸を痛めてらっしゃるご子孫や親戚・縁戚の方々がご存命やのに、戦争を知らへん若輩がやで、それもドキュメントやのうて小説仕立てで描いたら、大切な史実が、かたよって誇張されたイメージとして誤認・誤解されながら後世に伝わってしまう悪循環に自分も加担する気がしてイヤやねん」

菅靖匡


 

古代から、『戦争は人類の活動のうちで最たる愚行の一つだ!』ともいわれつづけてますが、いずれ人類が絶滅するまでは、おそらく無くなることもないでしょう。なぜなら、およそ第一世界大戦以降から戦争そのものが巨大ビジネスになってしまったことだから。また、人間世界では何事につけても本音と建て前があって、表があるから裏もある、光があるから影もできる、長所と短所はおなじもの、メリットの分だけデメリットもある・・・、第二次世界大戦にも、科学の進歩を強引にうながしたという一面があり、たとえば便利なコンピューターなども、そうした成果のうちの一つであることにちがいないのです。

 

 

関行男

報道班員、日本もおしまいだよ。僕のような優秀なパイロットを殺すなんて。僕なら体当たりせずとも、敵空母の飛行甲板に50番(500キロ爆弾)を命中させる自信がある。 僕は天皇陛下のためとか日本帝国のためとかで行くんじゃない。最愛のKA(海軍の隠語で妻)のために行くんだ。命令とあらば止むを得まい。日本が敗けたらKAがアメ公に強姦されるかもしれない。僕は彼女を護るために死ぬんだ。最愛の者のために死ぬ。どうだ。素晴らしいだろう。       マバラカット基地近く バンバン川のほとりにて

関行男2

初の神風特攻隊における指揮官の選定は、「海軍兵学校出身者を指揮官に」という猪口力平一航艦首席参謀の意向を受け、マバラカット飛行場・第二〇一海軍航空隊副長・玉井浅一中佐が関行男を提案した。関さんは「一晩考えさせてください」と即答を避け、数時間後に承諾の返事をしたそうです。左に記した、関さんが最期に語った言葉ともども噛みしめれば、軍人としては命令にさからうことはできない、が、一人の男としての本音は、ただただ大切な人を、愛しい人を死守する!という一途な純心だったのです。

 

特攻機

昭和19年10月21日朝9時に体調不良をおして出撃したが、悪天候のため敵艦隊を発見できず帰投。関さんは泣きながら謝り、思い詰めて不眠症のようになったそうです。そして23日、24日と出撃しては、やはり悪天候にはばまれて帰投。翌早朝7時25分に出撃し、10時49分に散華なさいました。関さんの戦果として敵護衛空母セント・ロー撃沈と伝えられていますが、じつは敷島隊の誰が、どの敵艦に体当たりしたのか?は、その当時から不明のままです。

軍神の母

関さんの御母堂様・サカエさんが息子の壮絶な戦死を知ったのは、同月28日夕刻、ラジオを聞いた親類からの報せだったそうです。たちまち《軍神の母》として担ぎ上げられ、愛媛県知事はじめ名だたる偉いさん方やマスコミの狂躁によって、一人の母親として悲しんだり供養する間もなく翻弄され、終戦と同時に世間から見捨てられるどころか本当に石を投げられ、さまざま誹謗中傷とともに疎外され尽くす日々がはじまったのでした。このあたりは、ほかの四人のご家族も、ほぼ同様のありさまだった、と伝わっています。

「関中佐が菅さんと同郷の先輩であることは分かりますが、独自とか鬼才・天才とまで絶賛されてる、菅さんの史観のうちでも太平洋戦争における悲劇とは、やはり特攻隊に象徴されるのですか?」

「いえ、ぼくが《英霊》として想いをはせる人々とは、戦禍にみまわれ、戦渦に巻き込まれた軍人と民間人すべての御霊であり、その当時には敵や味方であった諸外国の人々をも含んでいて、その皆々様に対する鎮魂と追悼の意を忘れないように気をつけているつもりです。ただ、関さんのことは、おっしゃるとおり同郷の先輩というだけでなく、母校の先輩でもありますし、関さんとは終生に大親友だった加藤敬さんが、ぼくの実家と家族ぐるみのお付き合いしてくれた方なんです。ぼくの父も、幼いころに見かけたという、西条中学【現在の愛媛県立西条高等学校】の同級生・加藤さん家に遊びにきた関さんのことを覚えていて、折にふれて話してくれてたんです。さらに加藤先生は、戦後に西条市内で開業なさった名医でして、ぼくは産まれる前から診察してもらっていて、ついに先生がご高齢のために引退なさるまで掛かりつけのお医者さんだったんです。そして、ぼくの伯父は、終戦があと数日おそかったなら人間魚雷《回天》で出撃していた人でして、その上で、ご質問の太平洋戦争、我が国からすれば大東亜戦争ですが、このことについて考えるなら、少なくとも明治維新以降〜昭和にいたる国内外情勢の移り変わりとか、つぎつぎ勃発した幾つもの戦禍戦渦を一つの流れとして、それを、いま現在の常識とか、善悪や正否を判断する価値観を抜きにしてながめてみるんです。ただし、ぼくは、《人間は、それぞれ民族性というもの以外のことについて、つまり人間という生物の本質そのものは古代から変わっていないだろう》と思っているので、現代科学のうちでも《心理学》とか《脳科学》といった分野から知りえた知識などは、やはり知りえた史実それぞれの信憑性を推し測るときの参考材料にさせてもらってますけどね」

太平洋戦争には開戦以前から 開戦〜終戦にいたる完璧なシナリオがありました

フランクリンルーズベルト

第32代アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトは1933年就任から大統領選史では唯一、4期連続当選を果たした。
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻したことで、いわゆる第二次世界大戦がはじまりました。イギリスのチャーチル中国の蒋介石はアメリカ参戦を切望していましたが、ルーズベルトが1940【昭和15】年11月に3選したときの公約は、「みなさんの子どもたちは、いかなる外国の戦場にも送らない」というものでした。当時のアメリカ国民の大多数は、戦争に大反対だったのです。しかし、1939年からつづく世界恐慌の影響で低迷しきりの財政立て直しを果たさなければならないルーズベルトは、なにがなんでも参戦したい!という持ち前の執念で、自国民はじめ相手かまわず平然とウソにウソをかさねてゆくのです。

コーデル・ハル

ときのアメリカ国務長官として、できれば交渉によって戦争を回避したいと願う我が国に対し、『ハル・ノート』と呼ばれるケンカ状を叩きつけてきた、じつはソ連のスパイ。現在では《最後通牒》などといわれるが、その当時なら、《なにがなんでも先に一発くらいたいアメリカ側にすれば、そのとおり!》であり、そんな思惑など知るよしもなく継続中の交渉に臨んだ我が国にすれば、その内容を認識した日時と実情が、ついに開戦を余儀なくさせたものであった。

マンハッタン計画

1942年9月、アメリカ陸軍のレズリー・グローヴスが《マンハッタン工兵管区=核兵器開発チーム》の司令官に任命されて准将に昇進、同月10月にはルーズベルトが《核兵器開発プロジェクト》を承認し、物理学者ロバート・オッペンハイマーとともに極秘ですすめられた。戦後、アメリカ空軍士官学校の図書館内で原爆計画に関与したアメリカ軍上層部の膨大なインタビューテープが発見され、詳細な検証の結果、ついにヒロシマに投下する2年以上前から、どこに投下するかについての会議がはじまっていたこと、「トルーマン大統領は、日本の一般市民の上に原爆を落とすという軍の作戦をとめられなかった」とグローヴス自身が語っていることも明らかとなった。

たとえば3期め就任前後には、財務長官ヘンリー・モーゲンソウが、「我が国としては宣戦布告せず、蒋介石の国民政府軍を装って、日本本土への無差別爆撃を」などと提案したり、じっさい《フライング・タイガース》と称するアメリカ空軍戦闘機100機と兵士200名に国民政府軍のマークを付けて中国に派遣しており、3期め就任から半年後には《武器借与法》を成立させて合法的にイギリスや中国やソ連を支援しはじめ、翌年7月23日には、『150機の長距離爆撃機を国民政府軍に供与し、東京・横浜・京都・大阪を無差別爆撃する』という作戦計画書に署名しています。そんなルーズベルトですが、核兵器開発プロジェクトには、まったく興味さえ示さなかったことを、グローヴスがインタビューで語っています。また、およそ終戦の4ヶ月前に脳卒中で死去し、副大統領のトルーマンが昇格・就任しました。さらに終戦後にはルーズベルト政権時代のホワイトハウスがコーデル・ハルばかりかコミンテルン【共産主義政党の国際組織】のスパイだらけだったことが明らかになりました。前述の『150機の長距離爆撃機を』という計画を推進していた大統領補佐官ロークリン・カリーも、やはりソ連のスパイでした。

ルイス・フィーザー

俗に《非人道的な悪魔の兵器》などといわれ、湾岸戦争以降、アメリカ国防総省ペンタゴンは、「アメリカ軍では使用禁止として廃棄した」と公式発表した《ナパーム弾》を、1942年に開発して実用化を果たしたルイス・フィーザー。大まかには航空機投下用と火炎放射器用の2種類に分けられるが、それぞれに威力の異なるモノが造られ、第二次世界大戦以降も、ベトナム戦争や多数の戦争・紛争で使用されている。なかでも《M69焼夷弾と呼ばれるのは、『日本の家屋は木と紙でできている』という調査結果をふまえて、無差別爆撃【俗に、絨毯爆撃ともいう】仕様で開発され、B29爆撃機に搭載されて、1945年2月の神戸大空襲で初使用されたモノで、翌月にはM47型も混載して東京大空襲はじめ日本各地への無差別・絨毯爆撃が行われた。

第33代トルーマン大統領

おおよそ、「我が国の将兵の犠牲を増やさないためにも、はやく戦争を終結させる手段として、やむをえず原爆を投下した」というような主旨をアメリカ国民に対してラジオ演説したのはトルーマン大統領で、終戦に狂喜したアメリカ国民の大多数が、これを長く信じ込んでおり、近年でもB29爆撃機までがヒーロー的な大人気らしい。が、トップシークレットが解除されて一般公開された公式記録や、前述のとおり新たに発見された膨大な資料を精査・検証した科学者たちの努力によって、世界史上では第二次世界大戦、アメリカ戦史上では太平洋戦争、我が国戦史なら大東亜戦争という、まさに人類の現在と未来への展望を大きく変えてしまった大惨事の実相が、次々と解明されている。『日本は、決して侵略戦争などしていない』というのが、いま現在の良識ある国際的歴史学者たちに共通の科学認識なのである。


小説を書きたい! という視点からながめてみる人類史

お猿の子

「だから、どうだってんでえ!人間ども!てめえらの欲望×(喜怒哀楽+愛憎)ってえワガママ勝手に、しかも反省も性懲りもなく、何より大切な自然を壊しつづけやがってえ!そのせいで、どれだけの生き物が絶滅したり、いまも大迷惑をこうむってると思うんだ!バカヤロウ!ええっ?!知ったこっちゃねえってか!だったら教えてやらあ!その破壊し尽くされた地球に産まれて生きて死ななきゃならねえのはなあ、てめえら自身の子孫なんだぜえ!てめえの子や孫の分まで食い尽くしちまって、あとは野となれ山となれってか?!ちょっとは恥を知りやがれってんだ!バカヤロウ!草葉の陰で泣いていた、てめえらのご先祖さん方もなあ、あまりの情けなさに、いまじゃ涙も涸れ果てちまってさ、死んでも死にきれねえって嘆いてらあ!ざまあみやがれ!バカヤロウ!」


それでも やっぱり小説を!という視点でながめてみる人類史

お猿の子2

歴史ってさあ

菅靖匡 談話より抜粋

オレだって、学者とか研究者とかいうアタマのいい偉いさんじゃあないんだから、このページに書いてあることなんて、その気になって、ちょいと調べりゃあ、誰にだって分かることばっかりさ。オレは、あえて書かなかったけど、GHQ【連合国軍最高司令官総司令部】の連中はもとより、GHQが、「第三国人は帰りなさい」って指示したにも関わらず居残った人たちが、いったいぜんたい、その当時の日本人に対して、どれほど残虐なことをしたかっていう史実も含めてね。
  えっ?!なんで書かないのかって?!そりゃあ、いまさら言ったり書いたりしたところで、ただの恨み言や愚痴になるだけだと思うしね、まあ、たんなる知識としてなら、知らないよりは知っているほうがいいとも思うけどさあ、そんな史実の数々より、もっと悪行かつ残念なのは、そんなGHQに媚びへつらい、そんな第三国人を見て見ぬフリした日本人の偉いさん方こそだ!と思うんだからなあ。その当時ならこそ逆らえなかったことも分かるし、いわゆる凶悪な暴徒たちが怖かったって気持ちも分かるけど、やっぱり歴史上には重要・重大な事実なんだから、せめて俗にいう《サンフランシスコ講和条約》が締結された直後には晴れてふたたび独立国となったんだから、あらためて日本人としての誇りをもってさ、「過ぐる占領統治下においては、これこれ、こういうことがあったけれども、恥ずかしながら、そのときには、どうしようもなかったんだ」と、きっぱり明言しといてくれたらよかったのに・・・、と思うばかりさ。だって、たとえば我が国の新憲法を監督・起草したGHQの当事者たちがだよ、年老いたころには、「あれは独立国の憲法じゃあないってことは、もちろん我々だって分かりきっていたし、平和条約が締結された直後には、まず第一に日本人の手で破棄・改正されると思ってたんだけどなあ」なんて、しんから不思議そうに、まるで呆れたみたいにインタビューで語ってるじゃないか。ほんと、私の私のカレは〜左マッキ〜ってのは、もう、いい加減にしてくれないかな。だからって、わたしは右マキ・すれ違い〜、ってわけでもないんだからさあ。

 



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