初めての体当たり攻撃を命ぜられて散華した特攻隊員たちと ご家族の苦悩
- 一番機 関 行男 愛媛県西条市出身 23才 海軍中佐
- 二番機 中野 磐雄 福島県原町出身 19才 海軍少尉
- 三番機 谷 暢夫 京都府舞鶴市出身 20才 海軍少尉
- 四番機 永峰 肇 宮崎県宮崎市出身 19才 海軍飛行兵曹長
- 五番機 大黒 繁男 愛媛県新居浜市出身 20才 海軍飛行兵曹長
※散華なさったときの満年齢と、二階級特進しての最終階級を記す。
菅靖匡 談話より抜粋
「出版社の方々から、《菅さん独自の史観と筆力なら、どの時代でも活写できるんだから、昭和の戦史を書きませんか》というオファーをいただくたびに、《ぼくには、およそ明治以降の戦史を、ましてや小説仕立てで書くなんて資格はないんです》とお断りしてるんや。その資格は、実体験なさった人々にしか無い、と思う。悲惨きわまりない戦争体験をなさった方々はじめ、いまだ生々しい記憶に胸を痛めてらっしゃるご子孫や親戚・縁戚の方々がご存命やのに、戦争を知らへん若輩がやで、それもドキュメントやのうて小説仕立てで描いたら、大切な史実が、かたよって誇張されたイメージとして誤認・誤解されながら後世に伝わってしまう悪循環に自分も加担する気がしてイヤやねん」
古代から、『戦争は人類の活動のうちで最たる愚行の一つだ!』ともいわれつづけてますが、いずれ人類が絶滅するまでは、おそらく無くなることもないでしょう。なぜなら、およそ第一世界大戦以降から戦争そのものが巨大ビジネスになってしまったことだから。また、人間世界では何事につけても本音と建て前があって、表があるから裏もある、光があるから影もできる、長所と短所はおなじもの、メリットの分だけデメリットもある・・・、第二次世界大戦にも、科学の進歩を強引にうながしたという一面があり、たとえば便利なコンピューターなども、そうした成果のうちの一つであることにちがいないのです。
「関中佐が菅さんと同郷の先輩であることは分かりますが、独自とか鬼才・天才とまで絶賛されてる、菅さんの史観のうちでも太平洋戦争における悲劇とは、やはり特攻隊に象徴されるのですか?」
「いえ、ぼくが《英霊》として想いをはせる人々とは、戦禍にみまわれ、戦渦に巻き込まれた軍人と民間人すべての御霊であり、その当時には敵や味方であった諸外国の人々をも含んでいて、その皆々様に対する鎮魂と追悼の意を忘れないように気をつけているつもりです。ただ、関さんのことは、おっしゃるとおり同郷の先輩というだけでなく、母校の先輩でもありますし、関さんとは終生に大親友だった加藤敬さんが、ぼくの実家と家族ぐるみのお付き合いしてくれた方なんです。ぼくの父も、幼いころに見かけたという、西条中学【現在の愛媛県立西条高等学校】の同級生・加藤さん家に遊びにきた関さんのことを覚えていて、折にふれて話してくれてたんです。さらに加藤先生は、戦後に西条市内で開業なさった名医でして、ぼくは産まれる前から診察してもらっていて、ついに先生がご高齢のために引退なさるまで掛かりつけのお医者さんだったんです。そして、ぼくの伯父は、終戦があと数日おそかったなら人間魚雷《回天》で出撃していた人でして、その上で、ご質問の太平洋戦争、我が国からすれば大東亜戦争ですが、このことについて考えるなら、少なくとも明治維新以降〜昭和にいたる国内外情勢の移り変わりとか、つぎつぎ勃発した幾つもの戦禍と戦渦を一つの流れとして、それを、いま現在の常識とか、善悪や正否を判断する価値観を抜きにしてながめてみるんです。ただし、ぼくは、《人間は、それぞれ民族性というもの以外のことについて、つまり人間という生物の本質そのものは古代から変わっていないだろう》と思っているので、現代科学のうちでも《心理学》とか《脳科学》といった分野から知りえた知識などは、やはり知りえた史実それぞれの信憑性を推し測るときの参考材料にさせてもらってますけどね」
太平洋戦争には開戦以前から 開戦〜終戦にいたる完璧なシナリオがありました
第32代アメリカ合衆国大統領フランクリン・ルーズベルトは1933年就任から大統領選史では唯一、4期連続当選を果たした。
1939年9月1日、ドイツがポーランドに侵攻したことで、いわゆる第二次世界大戦がはじまりました。イギリスのチャーチルや中国の蒋介石はアメリカ参戦を切望していましたが、ルーズベルトが1940【昭和15】年11月に3選したときの公約は、「みなさんの子どもたちは、いかなる外国の戦場にも送らない」というものでした。当時のアメリカ国民の大多数は、戦争に大反対だったのです。しかし、1939年からつづく世界恐慌の影響で低迷しきりの財政立て直しを果たさなければならないルーズベルトは、なにがなんでも参戦したい!という持ち前の執念で、自国民はじめ相手かまわず平然とウソにウソをかさねてゆくのです。
たとえば3期め就任前後には、財務長官ヘンリー・モーゲンソウが、「我が国としては宣戦布告せず、蒋介石の国民政府軍を装って、日本本土への無差別爆撃を」などと提案したり、じっさい《フライング・タイガース》と称するアメリカ空軍戦闘機100機と兵士200名に国民政府軍のマークを付けて中国に派遣しており、3期め就任から半年後には《武器借与法》を成立させて合法的にイギリスや中国やソ連を支援しはじめ、翌年7月23日には、『150機の長距離爆撃機を国民政府軍に供与し、東京・横浜・京都・大阪を無差別爆撃する』という作戦計画書に署名しています。そんなルーズベルトですが、核兵器開発プロジェクトには、まったく興味さえ示さなかったことを、グローヴスがインタビューで語っています。また、およそ終戦の4ヶ月前に脳卒中で死去し、副大統領のトルーマンが昇格・就任しました。さらに終戦後にはルーズベルト政権時代のホワイトハウスがコーデル・ハルばかりかコミンテルン【共産主義政党の国際組織】のスパイだらけだったことが明らかになりました。前述の『150機の長距離爆撃機を』という計画を推進していた大統領補佐官ロークリン・カリーも、やはりソ連のスパイでした。
小説を書きたい! という視点からながめてみる人類史
「だから、どうだってんでえ!人間ども!てめえらの欲望×(喜怒哀楽+愛憎)ってえワガママ勝手に、しかも反省も性懲りもなく、何より大切な自然を壊しつづけやがってえ!そのせいで、どれだけの生き物が絶滅したり、いまも大迷惑をこうむってると思うんだ!バカヤロウ!ええっ?!知ったこっちゃねえってか!だったら教えてやらあ!その破壊し尽くされた地球に産まれて生きて死ななきゃならねえのはなあ、てめえら自身の子孫なんだぜえ!てめえの子や孫の分まで食い尽くしちまって、あとは野となれ山となれってか?!ちょっとは恥を知りやがれってんだ!バカヤロウ!草葉の陰で泣いていた、てめえらのご先祖さん方もなあ、あまりの情けなさに、いまじゃ涙も涸れ果てちまってさ、死んでも死にきれねえって嘆いてらあ!ざまあみやがれ!バカヤロウ!」
それでも やっぱり小説を!という視点でながめてみる人類史
菅靖匡 談話より抜粋
オレだって、学者とか研究者とかいうアタマのいい偉いさんじゃあないんだから、このページに書いてあることなんて、その気になって、ちょいと調べりゃあ、誰にだって分かることばっかりさ。オレは、あえて書かなかったけど、GHQ【連合国軍最高司令官総司令部】の連中はもとより、GHQが、「第三国人は帰りなさい」って指示したにも関わらず居残った人たちが、いったいぜんたい、その当時の日本人に対して、どれほど残虐なことをしたかっていう史実も含めてね。
えっ?!なんで書かないのかって?!そりゃあ、いまさら言ったり書いたりしたところで、ただの恨み言や愚痴になるだけだと思うしね、まあ、たんなる知識としてなら、知らないよりは知っているほうがいいとも思うけどさあ、そんな史実の数々より、もっと悪行かつ残念なのは、そんなGHQに媚びへつらい、そんな第三国人を見て見ぬフリした日本人の偉いさん方こそだ!と思うんだからなあ。その当時ならこそ逆らえなかったことも分かるし、いわゆる凶悪な暴徒たちが怖かったって気持ちも分かるけど、やっぱり歴史上には重要・重大な事実なんだから、せめて俗にいう《サンフランシスコ講和条約》が締結された直後には晴れてふたたび独立国となったんだから、あらためて日本人としての誇りをもってさ、「過ぐる占領統治下においては、これこれ、こういうことがあったけれども、恥ずかしながら、そのときには、どうしようもなかったんだ」と、きっぱり明言しといてくれたらよかったのに・・・、と思うばかりさ。だって、たとえば我が国の新憲法を監督・起草したGHQの当事者たちがだよ、年老いたころには、「あれは独立国の憲法じゃあないってことは、もちろん我々だって分かりきっていたし、平和条約が締結された直後には、まず第一に日本人の手で破棄・改正されると思ってたんだけどなあ」なんて、しんから不思議そうに、まるで呆れたみたいにインタビューで語ってるじゃないか。ほんと、私の私のカレは〜左マッキ〜ってのは、もう、いい加減にしてくれないかな。だからって、わたしは右マキ・すれ違い〜、ってわけでもないんだからさあ。