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幕末〜明治のころ

人間世界じゃあ 知らぬ仏よりも 知ってる鬼のほうがマシですよ

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君

 

初めて知ったのは、中学3年のころかなあ。もともとは先生が、『君死にたまふことなかれ』ってのを授業で解説したのがきっかけでさ、与謝野晶子って人を知ったんだけれども、帰りに本屋で文庫本を買って読んでるうちに見つけてね、もうブルッときたのを覚えてる。あたしゃ、やっぱり今でも、なおさら、この一首が一番好きだよ。歌の解釈なんてものはね、読んだ人それぞれの知性と感性と想像力でもって違ってくるものだし、あえて正解をってえなら作者に問うてみるしかないんだからなあ。

与謝野晶子


みだれ髪

いまどきの人たちは、エロスって聞くと、少なからずが、ふと卑猥だとか不潔だとかってふうな下卑たイメージを想うんじゃないかな?!あるいは、たとえば水商売とかさ、ましてやAVだの風俗関係とかって聞けば、内心じゃあ、多少なりとも見下したりしてないかい?!この世じゃあ、自分は賢い!と思い込んでるバカほど始末におえない者はいないよ。差別反対!って叫びながら差別用語とかを造り出して、じつは優越感に浸って人を見くだし、セックスなんて下劣で不潔で恥ずべき行為だ!なんて眉をひそめながら、しっかりと子どもは作ってて、ときにゃ不倫だってしちまうんだからなあ。そんなアタマのいい人たちにお願い。良くも悪くも、ほかには取り柄も才能もないサラリーマンとさあ、性的な仕事でしか金をかせぐ手段のなくなってしまった人々に、おなじ人間として、どんな違いがあるってえのか?!いつの日にか、オレにも分かるように教えてね。m(。 。)m


七卿落ち

七卿落ち

世は刈菰と乱れつつ 茜さす陽もいと暗く  蝉の小川辺霧たちて  隔ての雲となりにけり
あらいたましや玉きはる 内裏に明け暮れ殿居せし
 実美朝臣 季知卿 壬生 澤 四條 東久世 そのほか錦小路殿

いま浮草の定めなき  旅西あれば駒さへも  進みかねてはいばえつつ
  降りしく雨は絶え間なく 涙に袖の濡れはてて  これより海山あさじ原  
露霧わきて蘆が散る  難波の浦に炊く塩の  からき浮世を物かはと

  行かんとすれば東山 峰の秋風身にしみて
朝な夕なに聞きなれし  妙法院の鐘の音も  なんと今宵はあわれなる  
  いつしか暗き雲霧を  おおいつくして百敷の  都の月をめで給ふらん

 

茶摘み

幕末   茶摘みの娘たち

江戸末期の長州藩にて吉田松陰がひらいた松下村塾にて、かの高杉晋作とともに双璧と讃えられた久坂玄瑞が、薩摩藩と会津藩の策略によって文久三(1863)年8月18日(新暦:9月30日)に勃発した《堺町門の変》で京を追放された公家・七名を警護しつつ萩へと落ちゆく道中に、悔し涙にむせびつつ即興で歌ったという今様ですね。あたしゃ、節まわし(メロディー)は知りませんけど、悲惨な異常事態の道中に、即興で、ここまで見事に詠めるあたりは、やっぱ天才だと思いますよ。
そうとうな男前で、しかも美声だったそうで、当時の娘たちには、いまでいう大スターみたいな存在でもあったとか。
うっ、うらめしい・・・、もとい、うらやましいよ。

 



松下村塾にて 晋作・玄瑞とならんで三秀と謳われる 吉田稔麿の辞世

結べども 又結べども 黒髪の 乱れそめにし世をいかにせん

元治元(1864)年6月5日(新暦:7月8日)、京は三条小橋【現在の木屋町】の池田屋に出かける前に、長州藩邸の中庭が見える濡縁にて見繕いしていたとき、元結が三度結んで三度切れた。「縁起が悪い、今夜はよせ」と留守居役が止めたが、微笑しながら取り出した懐紙に筆を走らせ、「即興とはいえ稚拙だな、明日、添削しますよ」と照れくさそうに言って預けたものが、はからずも辞世となってしまった。同夜、どうにか池田屋を離脱したが、締め切った藩邸門前にて力尽き自刃。享年24。翌未明には開門した留守居役によって発見され、遺髪となった髷と、そばに落ちていた巾着が、萩の親元へと返されたという。
いずれは明治政府にて栄達する山県有朋が、まだ奇兵隊に入って間もないころ、「オリ(俺)は稔麿と比べて、どのくらいの者でしょうかのう」と、高杉晋作に問うたことがある。
すると晋作は、きゃっと笑って盃を置き、「あれと人として比べられると思うちょるんか。あれが座敷でオリと呑んじょるとすりゃあ、おんしは玄関番もでけんのじゃけえ。味噌も糞もいっしょにするとは、おんしのことじゃ」ズケリ、真顔で言って盃を干した。
有朋は、よほど悔しかったらしく、後日、稔麿に向かって晋作の人物評を問うたところ、稔麿は、「ありゃあ、誰にも制御でけん野牛みたいなやつじゃが、いわゆる孤高の英傑じゃのう
ほなら、おんしにはオリが、どう見えちょるんかのう
すると稔麿は気の毒そうに、「オリは、べんちゃらやウソは言えんけえ、すまんがのう、おんしゃあ、なんの取り柄もない、まあ、凡庸なところが愛嬌じゃ」と答えている。そのころ草葉の陰では松陰が、塾生たちの和気あいあいぶりに苦笑していましたよ。

吉田松陰

松下村塾    吉田松陰

高杉晋作

希代の天才  高杉晋作

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