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東歌や防人歌

古代に詠まれた和歌には まこと美しき日本人ならではの真心が愛おしくも芳しい

草枕 旅行く背なが丸寝せば 家なる吾は紐解かず寝む   (東歌より
旅する貴方は着の身・着のまま野宿するのですもの  家にて待つ身の私は帯をとかずに寝ます

いまから1300年〜1400年ほど前、その当時には東国【おおよそ関東地方】あちこちで、つつましく、貧しいながらも精いっぱいに生きてはった庶民の《生命+心=魂》の歌が、『万葉集』に収録され、『東歌』と呼ばれながら現代にまで伝わってますわなあ。そんな歌たちのなかでも、防人として徴兵された人々と家族・親族らの絶唱は、『防人歌』と呼ばれとりまして、日清・日露戦争はじめ大東亜戦争のころには盛んに引き合いに出されたもんやったけれども、どうであれ、私たち日本人のご先祖様がでっせ、ほんまに地位も名もなき一庶民がや、これほど豊かな知性と感性と教養と想像力を保ってはったことには驚嘆すると同時に、あらためて日本人としての誇りを感じながら、ただひたすらの感謝を捧げ奉るばかりですわ。むかしの日本には、もちろん現在みたいに恥知らずな国家公務員たちや、人でなしの極悪人もおりましたけれども、ほんま謙虚で真面目で美しい魂を保った一般庶民のほうが多かったことには間違いのない、まこと素晴らしい、美しい国やったんでっせえ。

鎌倉の見越の埼の岩崩(いはくえ)の 君が悔ゆべき心は持たじ  (防人歌より
たとえば鎌倉の見越の崎の岩崩れのような 貴方を悔しがらせる心などは決して持ちません

ときの大和朝廷から、いわゆる《召集令状》がきたなら、貧富の差はもとより、独り身やろうと、年とった両親を介護してようと、親一人・子一人やろと、新婚さんやろと、幼子を抱えていようと、そんな、さまざま家庭の事情なんぞは考慮してもらえまへんどした。
しかも、関東地方あちこちから、はるか九州の太宰府までたどり着くためのアゴ(飲食代)アシ(交通費)マクラ(宿賃)など旅費すべてと、兵士としての武具と防具までもを自己負担で整えなあかんかったんですよってに、もう踏んだり蹴ったり・泣きっ面に蜂どころやおまへんで。多少なりとも裕福な者やったら、どうにか工面もでけますやろうけど、ほとんどの人々は食うや食わずの貧しい暮らしのなかで家族を養うてはるんですからなあ。ほんまの話、なかには、もう一家心中も覚悟せんならんかった方々かていてはりましたんやで。けど、まあ、祖国を守る、故郷を守る、家族を・愛おしい人を守るっちゅうのは、それこそ並大抵ななことやおまへんけれども、いっぺん失うてしもたら取り返しのつかん一大事でもありますのやから、こうしたご先祖皆々様方のおかげ様にて、いま現在の我が国は、まぎれもなく世界最古の国として存在してる!という有り難さですわ。
さらに、もう一つだけ言わせてもらいますと、かの大東亜戦争を戦い抜いて散華なさった英霊の皆々様と、本土無差別爆撃や沖縄攻防戦、そして二発もの原子爆弾に被災なされた一般庶民の日本男児と大和撫子の皆々様が宿しておられた、その美しき御霊すなわち大和魂とは、やはり古代よりのご先祖様方々が代々に磨きをかけながら、しっかりと受け継いでくださった、まこと尊き生命と心の結晶なのであります。
このことを、いま現在に生かされている私たち日本人ひとり一人が気高き誇りをもって心に思い出すべき、すでに大きな曲がり角にさしかかっているのだ!と、ワテには想えて仕方おまへん、そんな今日このごろなんどすわm(。 。)m

柳こそ 切れば生えすれ人の世の 恋に死なむを如何にせよとそ    (東歌より
柳なら切っても生えてくるけれど 人の世で 恋に死ぬ身を どうすりゃいいってのさあ

 

我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで  (古今和歌集より
愛しき人よ 幾千年も 小さな石が やがて巨岩となり それに苔が生すまで 健やかに美しくあれ

三十六歌仙のうちの一人 大伴家持はんてカッコよろしなあ

海行かば水漬く屍 山行かば草生す屍 大君の辺にこそ死なめ かへり見はせじ

大伴家持

 三十六歌仙の一人である天才歌人・大伴家持はん 

大伴家持

海をすすんだなら水に漬かった屍となるのが武門の覚悟
 山をすすめば草の生す屍となるが武人の覚悟だ
 天皇陛下のお足元にこそ死のうではないか
 往時を振り返ったり悔やんだりはしない

 

Wikipediaでの一説によれば、大伴氏は軍事につうじた名門で、大和朝廷において天皇の直接警護を任ぜられて代々を重ねたお武家はんやったそうでんな。つまり現在でいう皇宮警察の元祖・元締めっちゅうことでっしゃろか。
この短歌は、『万葉集』に収められている家持はん作の長歌の一節で、もともとは大伴氏の家訓でもあったんやとか。
それを明治政府が国民の戦意高揚をあおるために持ち出して、さらに昭和12年に同様の目的で作曲しなおして4日間だけラジオ放送されたんやそうですけれども、ついに真珠湾攻撃の成功を伝えるときと、あとは玉砕を伝えるさいに流されたんやそうでんなあ。東歌や防人歌もそうですけど、まったく古典としての素晴らしさを鑑賞すればええもんを・・・、あの世では、『万葉集』を片手に家持はんが明治街の役所【旧明治政府】に怒鳴り込み、「少なくとも、この曲に関しましては昭和街にある大本営プリズンのほうでお願いします」と説得されましてなあ、ただちに御供衆を引き連れて牛車ごと大本営プリズンに乗りつけては、もう手のつけようもないほど激怒してはりまっせえ。
 


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