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日本史ノスタルジー

味噌と糞との区別がつかなくなってしまった人々が暮らすシャングリラにて

廃墟

「そんなに昔がよかったと言うならっ、なんでお前は服を着ているんだあっ。昔はよかったと言いたいならっ、まず原始人みたいに裸で生活しろっ」

とある歴史の講演中に、突然、あたしの真正面の三列めくらいに座ってたご老人が立ち上がり、さっと伸ばした右手であたしを指さしながら叫んだんですな。あたしゃ、一瞬、なにをおっしゃってるんだか分からなかったんだけれども、あわてて出てきた司会者の方の通訳によると、どうやら《懐古主義》だってえ意味のことを言いたかったらしい。さらに会場のスタッフ方々のお世話で、その場は何とかしのいだ終了後に、あらためて話を聞くってえと、そのご老人は数年前に定年退職なさった、もと教師だというんだからなあ。あたしゃ、もう二度ビックリしましたよ。
まずは知識として史実を知ったほうがいいですよ」てえのと、ただ、やたらに「昔はよかったなあ」とか、「じっさい見聞してきたのか」とか、挙げ句の果てにゃあ「今どきの若い者ときたら云々」とかってのは、それこそ味噌と糞ほどに違いますよ。
人間社会の構造や科学の進歩によって、いま現在の世界のうちで先進国といわれる国々のほとんどが、何につけても便利かつ清潔で快適に暮らしやすい環境ですし、あたし個人としても、およそ慎ましく過ごしていれば、その日常に生命はもとより財産の危機など感じることさえない有り難さを充分に享受しております。ただし、あたしが歴史というものをながめたり、ことに興味をもって書いたり語ったりするときにゃあ、懐古主義なんてことを夢にも思っちゃあいませんよ。人間世界ってのは、ほとんど相対的な時空なんだし、いつの時代でも良いところと良くないところが混在してるんですからねえ。
たとえば我が国だって、およそ戦前と戦後の違いあれこれをながめてみなきゃ、いま現在の有り難さ・素晴らしさにも気づきにくいだろうし、あなた方のご子孫のためにもさ、もっと素晴らしい未来を希望して切り拓いてゆくための知恵やアイディアも思いつきにくいんじゃあないかな?!
ようするに史実を学ぶってことはね、過去を懐かしんで賛美することじゃあなくってさ、まず現状確認と裏取りをした上で、よりよい未来に向かって基礎固めしてゆくための、とても簡単で有効な手段の一つだってことです。そう思ってるあたしがながめる現在世界ってのは、もちろん素晴らしいところも沢山あるんだけれども、やっぱり、いまの若い人たちと、これから産まれ育ってゆく人たちに対してはね、「ほんとに申し訳ありませんでした、心からお詫びいたします、ゴメンナサイ」と、いくら陳謝したって済まない、あまりに莫大かつ取り返しもつかない負の遺産を、まだまだ増やしつづけてるようにも見えているんだからなあ。

廃村

むかし栄えた三碧峡 

棚田

石鎚山腹の狭い棚田 

廃村2

廃村跡の一風景 

コウモリ

石鎚の秘境に棲む孤独

               

一蓮托生

あたしの庭に咲いた蓮
 

謝る



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