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日本史ノスタルジー

平安末期に流行った歌謡曲を いま楽しんでみよう

我が子は十余に成りぬらん 巫(かんなぎ)してこそ歩くなれ
  田子の浦に汐ふむと いかに海人(あまびと)集ふらん
 まだしとて  問ひみ問はずみ なぶるらん いとをしや

我が子は二十に成りぬらん 博打してこそ歩くなれ
 国々の博党に さすがに子なれば憎かなし
 負かいたまふな 王子の住吉西の宮

我が子は十才を過ぎて、歩き巫女となりました。田子の浦で海水から塩をつくる女たちが、我が子を取り囲んで口々に何やかや問いながら 「まだ未熟だわね」と嘲笑してからかうさまを想像すると、もう泣きたくなるほど心配で哀しいのです。
私の子は二十歳で、博打しながら国々の悪党を頼って放浪しておりますが、それでも我が子なれば憎み切れないのです。住吉や西の宮におわします王子神様、どうぞ我が子が負けませぬよう守りたまえ、幸(さきわ)えたまえ。

地獄太夫

浮世絵師・月岡芳年 画

熊野護符

熊野三山から授かる     熊野牛王符熊野護符2

《歩き巫女》と呼ばわれますのは、産まれ故郷にある神社とか、あるいは親ゆずりの信仰を継いだ女性が、布教という名目で諸国を巡りながら、じっさいの生業としては占いやら、さまざまな歌や踊り、あるいは夜伽【俗にいう夜の営み】もして生きながらえていた人々ですわなあ。
その当時は、あちこちで戦乱が勃発している物騒な世の中ながらも、一般庶民は大らかなもので、彼女たちを見くだして差別するような人は少数派、むしろ大衆にとっては興味をひかれる人気の的でもあったんですわ。
こうした歩き巫女が、たとえば死んだ牛や馬の皮を河原で剥ぐ人々(河原者)と意気投合するうち、いずれ狂言や能や歌舞伎にまで昇華してゆく、いわゆる芸能の種ともなっていったあたりこそが、まこと有り難き人の世の妙っちゅうもんですわなあ
ちなみに彼女たちが配ってまわった神札のうち、熊野三山の牛王符は当時の別格でして、全国各地の武将たちが誓約を交わすさいには、この護符の裏に条項を書いて花押すなわちサインするのが慣例でした。こうすることで天地神明にも誓ったこととされたんですわ。


 

     君が代は 千代に一たびゐるちりの しら雲かかる 山となるまで

愛しき人よ 千年に一度だけ降る塵が積もって いずれ白雲のかかる山となる日まで

             どうぞ美しく 健やかで かつ安らかにあれ

日本語の素晴らしさは、おなじ意味のことを伝えるにも、さまざまに端的で美しい喩えが豊富なあたりだと思います。
ハリウッド映画などの翻訳でも、英語のセリフまわしは同じなのに、まずは老若男女と、前後のストーリー展開や場面の状況などによって、日本語でのセリフまわしが違っていることは珍しくもなく、あらためて日本語のきめ細かな表現力に気づかされるのでした。

 

 

 

あたしが あたしの半生をつうじて犯してきた大罪の一つ そして その罰

我を頼めて来ぬ男
角三つ生ひたる鬼になれ   さて人に疎まれよ
霜雪霰降る水田の鳥となれ   さて足冷たかれ
池の浮草となりねかし   と揺りかう揺り揺られ歩け

わたしを その気にさせときながら ほったらかしにした男め
角が三本はえた鬼になっちゃえ そうして人に疎まれればいい
霜や雪や霰が降りしきる水田の鳥になれ さぞかし足が冷たかろう
池の浮草みたいになっちゃえ そうして浮世をさまよい 放浪しつづければいい

女の恨みは恐ろしい!てえのはホントのことだと、つくづく骨身にしみて思ってますよう。泣かした女は数知れず!なんて気どるつもりは、これっぽっちもないんだけれども、若いころからさ、どういうワケだか片思いで口説きつづけることがホントの恋だと思い込んでて、ついに両思いって段になったとたんに、もう一気に冷めちまうんだからなあ。その大バチが当たってさ、とうとう孤独死てえ寸法さね。まあ、これこそ自業自得ってやつだから、いまさらジタバタしたってしょうがない。
この世で、たった一人だけ!魂すべてで愛した貴女への想いを抱いて逝ってさ、あの世でも独りで待ってるよう。

女性の憾み


おそらく誰もが知っていると思われる流行歌を 天才シンガーのおの助が歌えば いったいぜんたい どうなってしまうのか?!

遊びをせんとや生(うま)れけむ 戯れせんとや生れけん  
   遊ぶ子供の声聞けば  我が身さへこそゆるがるれ

遊びをせんとや

   郭の月

郭の月

    月岡芳年 画

戯れせんとや

人は 歌ったり踊るために生まれてきたんじゃないの?!
そして いずれはアレをするために生まれてきたのでしょう?!
だけど 無邪気にはしゃぐ子どもたちの声を聞いてるうちには
歩き巫女だの遊女だのと言われ慣れてるはずの我と我が身が
なんだか頼りなく  ふと恥ずかしくも思えてくるのは なぜ?!

 

古来、《性善説》と《性悪説》といわれる教えが伝わっていますね。まず性善説とは、古代中国の儒学者・孟子(もうし)が提唱した教えでして、あたしなりに解釈しますと、『人間という生き物は、もともと無垢な《善》という本性を保って生まれてくるのだけれども、この世で成長するうちには《悪》に染まってしまいやすいのだから、よくよく学んで知性と良識を養いなさいね』てえ感じですな。で、つぎに性悪説とは、孟子が死んで数十年後に出てきた荀子(じゅんし)てえ儒学者が、孟子の教えにチョイとケチつけて、『あいや暫く。人間という生き物の本性は、たとえば他のどう猛な生物と似たり寄ったり、もともと野蛮な《悪》であるからこそ、よくよく学んで養った知性と良識でもって、自らの内にある《悪》を制御しながら成長するうちに、ゆっくりと少しずつ《悪》を薄め、弱めてゆく努力をしなさいよ』てなふうに説いた。
ってか、人間てなあ、オオカミに育てられりゃあオオカミみたいに、サルに育てられたらサルみたいになる生き物なんだからなあ。せがれが言うのもなんだけど、「これほどの善人は、そうザラにいるもんじゃあない」てえ両親に恵まれた有り難さでもって、どうにか人がましく育ってさ、いまのところ俗にいう前科持ちにはならずに生かしてもらってるんだけれども、その本性はってえと知る人ぞ知るバカでスケベなロクデナシなんだし、できるだけ他人に迷惑かけないようにと気をつけてるつもりでもさ、たくさんの人たちに迷惑かけてきたし、その心を傷つけたり、ずいぶんとイヤな思いもさせてきたことには間違いない。
ときにゃあ、あまりの情けなさでもって早く消えてしまいたい!なんて思うこともあるんだけれども、まだグズグズと生き恥をさらしながら、あの世と、この世を往来している今日このごろ。
愛しい貴女は、どうしておりましょうか?!

 

 


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